1751LAB 企画開発研究所

PROJECT

1×1=∞ 伝統工芸から先端技術、原料から製品まで、LABとのコラボによる化学反応を目指した企画に取り組んでいます。人と人との想いもコラボしたスペシャルプロジェクトです。

刺し子

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日本の伝統的な手工芸、刺し子。様々な技法が存在しますが、青森県津軽のこぎん刺し、青森県南部の菱刺し、山形県庄内( しょうない)の庄内刺し子が日本3大刺し子と呼ばれています。
刺し子の始まりは防寒や補強のために綿布または麻布を綿糸で刺繍していたと言われており、500 年前頃から始まったという説もあります。やがてただ糸をさすだけでなく、豊かな意匠性が生まれました。地域によって糸の太さなど違いはありますが、共通して独特の幾何学的な形を持っています。

現在は人気のある手芸の一種であり、一方で田中忠三郎の蒐集(しゅうしゅう)した786 点もの古い刺し子着は国の重要有形民族文化財に指定されるなどその価値が評価されています。
元々刺し子は貧しい農民の生活の中で発達したものです。昔木綿や麻布は貴重なものでした。
特に東北では気候の問題で綿花の栽培が出来ませんでしたので木綿と綿糸は手に入りにくいものでした。着古して解れた部分を糸で繕(つくろ)い、細かく糸を刺すことで生地の強度する一方、自然のモチーフや家に伝わる柄、時には他の地域から伝わってきた意匠を取り込んで現在伝わる多彩な幾何学柄が生まれたと言います。
大抵は藍染された綿または麻布に白い綿糸で刺繍がなされています。時代が新しいものは色糸を用いられた鮮やかな刺し子も存在しますし、逆に綿糸で細かく刺繍した跡にあえて藍を重ねた渋い作りものも存在します。

遊佐の刺し子

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山形県の庄内地方にある遊佐(ゆさ)町は、日本海と鳥海山(ちょうかいさん)に挟まれた自然の恵みが豊かな土地です。かつてこの地域の住民は、鳥海山を神様のおわす山として敬意を持って接していたそうです。
昔は厳しい冬を乗り切る為に沢山の薪が必要でした。そこで町の男衆は大きなそりを引いて山に入りました。「橇木山(そりぎやま)」と呼ばれる風習なのですが、その際男衆は“そり引き法被(はっぴ)” というたすきの部分が特徴的な服を正装として神様の山に入り、遊佐の女性はその法被に丁寧に刺し子を刺していました。この橇儀山の風習はプロパンガスが普及する昭和38 年頃まで続き、現在は遊佐の資料館や一部の家庭にひっそりと当時の橇や法被が残っています。

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遊佐のそり引き法被には、横刺しの幾何学模様が主に橇引きの際に負荷がかかる肩口や襷(たすき)部分に刺されています。そこには防寒や補強の機能的な側面もありましたが、神様への祈りや男衆が無事に仕事を終えられる様に願う気持ちが込められていたことでしょう。
我々が出会った古いそり引き法被は、繕われつつ何代も使われたものでした。おばあさんが刺した文様の上に、また娘そして孫娘と世代を超えて緻密な手作業の文様が刺されており、見た目にも美しく途方な時間の流れを感じました。
遊佐の刺し子の意匠は現在130 種類確認されています。柿の葉刺しや吉祥文(きっしょうもん)などの日本中で見られる意匠も存在する一方で、そろばん刺しや蝶刺しなどの遊佐でしか見受けられない独特の文様も存在します。
これらは身近に存在するものがモチーフになっており、生活に根付いたものであることが見受けられます。

手業を機械へ

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福島の織物職人・大峡健市(おおはざま けんいち)さんは織元の四代目で手業の刺し子を織機に落とし込んだ“刺し子織” の作り手です。
民芸家・柳宗悦(やなぎ むねよし)の甥である染色家・柳悦考(やなぎ よしたか)に師事を受けていた頃に大峡さんはこの刺し子織りを作るようになったそうです。長年織り上げてきた経験を生かして織り上げられる生地には刺し子の膨らみや 柔らかさが感じられます。この柔らかさは大峡さんのものづくりで拘っている部分だと語っていらっしゃいました。

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今回1751LAB は遊佐のそり引き法被の襷からインスピレーションを受けたオリジナルの柄を企画し本物の雰囲気を追求しようと、ベースの部分にすくも藍で丁寧に手染めした英式紡績糸を使用しました。
刺し子織りは貧しい農村で発達したもので綿の素材で作られていくものですが、
ウールの生地でその意匠や刺し糸のふくらみを表現し、より温かみの感じられる素材を目指しました。